と言っているように、サッとぶび立ちました。子どものキジバトもあとヘついていきました。私の悲しみをひいて、2ひきの鸟はさっていきました。
でも、次の日からも、いっしょにいると同じです。だって亲鸟、子鸟の3ひきでいつもてくれているんです。まるであの悲しみがうそのようです。
それからずっとたち、それでもあのキジバトはあいにきています。
今でも、
「ポッポ一」
と、いう元気なキジバトの声が耳にささやいています。
「さようなら。私のキジバト。」
2私の町の开発を考える
私の住む町は、八沟山系とこらに抱かれた、绿豊かな町てず。自然に恵まれ、空気 も済んでいて、心やすらぐ静かな环境を求めて都会课ら移り住む人もいます。
しかし、近年、この町の绿が少じずつ失われていっているような気がしてなりません。豊かな自然环境は、开発という文明のカと调和しないのでしょうか。
つい最近、学校で、工事现场へ行き、日本でも三つの建设会社しか持っていないほどのタイャの直径2メートルもある特殊な机械を见てきました。そこでは、その特殊な机械を使い、山を四つも五つも崩し、平らにして自动车のテストコースをのくっていました。あまりにもすごい迫力に、私はただた呆然として见ていました。クラスご撮った机械の记念写真が教室に饰ってあります。それを见れば、いかに大きな机械であり、またたく间に工事が进行するかが、容易に想像されるこでしょう。
见学に行くまで、この工事で茂木町は発展するのだ、と思っていた私いは、人间の力の前で、无力な自然の姿を见せつけられた気がしてなりませんでした。何百年もかて自然が筑いてきた绿の山林が、土とほこりにまみれた平地に奕えられのに、ほんの数か月しかかからないからです。
しかし、本当は自然の力ほど恐らしく、人间の力を无力にするものはないのです。
というのも、茂木町は2年前の水害で大打撃を受け、自然の恐らしさをいやというほど味わっでいるからです。今でも忘れられないあの出来事は、自然という大きな存在を私たちに、真剣に考えさせずにおかなったはずです。水害を受けた地域では、河川工事をしでいますが、いらいらと気をつかって、自然のしくみに适合し、自然の美観を损なわない工法で进め乙ぃるようです。
私に限らず、このような事业を、水害から立ち直リ発展する象徴のように思っていた人は少なくなかったでレょう。