我が身が生涯に望み、知りうることは、世界中を旅行しようと、何をしようと、小さい。あきれるくらい小さいのだが、この小ささに耐えていかなければ、学问はただの大(おお)风(ぶ)吕(ろ)敷(しき)(注1)になる。言叶の风(ふ)吕(ろ)敷(しき)はいくらでも広げられるから、そうやっているうちに自分は世界的に考えている、そのなかに世界のすべてを包める、①そんな错覚に捕らえられる。木でいい家を建てる大工とか、米や野菜を立派に育てる农(のう)夫(ふ)とかは、そういうことにはならない。世界的に木を削ったり、世界标准の稲を育てたりはできないから、彼らはみな、自分の仕事において贤明である。我が身ひとつの能力でできることを知り抜いている。学问をすること、书物に学ぶことは、ほんとうは②これと少しも変わりはない。なぜなら、そうしたことはみな、我が身ひとつが天地の间でしっかりと生きることだからだ。
人は世界的にものを考えることなどはできない。それは错覚であり、空想であり、愚かな思い上がりである。ただし、天地に向かって我が身を开いていることならできる。我が身ひとつでものを考え、ものを作っているほどの人间なら、それがどういう意味合いのことかは、もちろん知っている。人は谁でも自分の気质を背负って生まれる。学问する人にとって、この気质は、农(のう)夫(ふ)に与えられる土壌のようなものである。土壌は天地に开かれていなければ、ひからびて(注2)不毛になる。
与えられたこの土を耕し、水を引き、苗を植える。苗がみずから育つのを、毎日助ける。苗とともに、自分のなかで何かが育つのを感じながら。学问や思想もまた、人の気质に植えられた苗のように育つしかないのではないか。子供は、勉强して自分の気质という土を耕し、水を引き、もらった苗を、书物の言叶を植えるのである。それは、子供自身が何とかやってみるほかはなく、そうやってこそ、子供は学ばれる书物とともに育つことができる。子供が勉强をするのは、自分の気质という土壌から、やがて実る精神の作物を育てるためである。「教养」とは、元来この作物を指して言うのであって、物(もの)识(し)り(注3)たちの大(おお)风(ぶ)吕(ろ)敷(しき)を指して言うのではない。
日语中的第一人称表述有:私(わたし)、仆(ぼく)、わし、俺(おれ)、俺(おれ)様(さま)、同学们要分清场合使用哦~