大隈重信が支えた歴史的伟业
明治43年(1910)1月、白瀬は面识のあった元宫城県知事で千头清臣(ちかみ・きよおみ 1856~1916)らのすすめにより、第26回帝国议会に「南极探検に関する経费下付请愿」(10万円)を提出した。これに対して、帝国议会は3万円で议决したものの、政府からは援助金が全く支给されなかった。
千头は大隈重信(1838~1922)に白瀬を绍介すると、大隈は过酷だった千岛探検に生き残り、世界の探検家と肩を并べて、极地を目指している白瀬に大変兴味を抱いたという。
また、白瀬と亲交のあった成功雑志社の社长・村上浊浪(むらかみ・だくろう ?~1924)は、南极探検の计画を国民に诉えて义捐金を募り、探検费用にしようと、明治43年7月5日、东京・神田の锦辉馆で「南极探検计画発表演说会」を开いた。大隈を始めとして南极探検に賛同する当时の著名人による演说は満员の中で行われ、演说会终了後、南极探検後援会が発足した。
会长には大隈重信が就任し、政财界、朝日新闻社の协力など各方面へ支援を呼びかけ、探検费用に充てるため、入场料の寄付を目的とした早稲田と庆応のチャリティー野球戦を行うなど、大隈の尽力によって集まった资金と人脉で、南极探検は実现へと向かった。
明治43年11月26日、大隈は队员全员を早稲田の自邸に招いて、告别壮行会を行い、绫子夫人から队员一同に三崎稲荷のお守りを入れた真绵のチョッキが赠られたという。
11月28日は朝から晴れ、午前7时、队员一同は皇居二重桥前に整列して出発奉告式を行い、午後1时には南极探検後援会の干事および有志による送别会が东京芝浦の埋立地で开かれた。送别会には早稲田大学の学生など5万人もの観众が诘めかけ、後の南极観测事业を承认した文部大臣・松村谦三(早稲田大学出身)もその1人だった。大隈の演说では「百発の空炮は一発の実弾に如かず」という言叶で队员を激励した。
翌29日午後0时5分に出航、横浜港に寄って、武田辉太郎学术部长を乗せ、干事の樱井熊太郎等が下船した。港外碇泊の帝国军舰「津軽」より『汝の成功を望む』と信号があり、『汝の厚意に谢す』と答え、开南丸は南极へ向け无事に出航した。
白瀬队がシドニーまで撤退したとき、大隈はさらなる资金集めに奔走するとともに白瀬を电报で励まし、ついに极地突入を成功へと导いた。白瀬队は大隈への感谢の意を表して、南极にある入り江を「大隈湾」と命名し、昭和8(1933)年にアメリカ地理学协会から国际的に认められている。
愿意翻就翻,哪那么多废话