美しい日本语としまつな暮らし方を学ぶ
幸田文の小说が好きだ。からっとしていながら巧みで无駄のない文体も好きだが、派手にならずにずっと印象に残る粋な着物の着方とか、化妆や人付き合いについての记述をみつけるのも楽しみの一つだ。
で、もっとも惹かれるのは、忘れ去られようとしている美しい日本语や言叶遣いがあちこちにちりばめられていることだ。美しいだけではなくて、とても太刀打ちできないような昭和ならではの洒脱で粋ないいまわしが多い。登场人物の立ち居振る舞いや动作、マナーからも新鲜な発见がある。
『黒い裾』で、十六歳の千代が病弱な母に代わって初めて葬式の手伝いに出る描写がある。千代はどぎまぎ、ぎくしゃくしながら一生悬命母からことづかった言叶を、寺の受付で述べる。
「今日は皆さまご苦労様に存じます。私ども母もお手伝いに参るのですが、持病がございまして私代わってお胜手元なんなりとご用いたしとうございます。なお……お耻ずかしゅうございますが纹服の用意がございませんので、不断着をおゆるしくださいますよう」(原文まま)
いくら昭和の昔といえども、さすがに十六の子が「纹服の用意がございませんので」とへりくだって言うのは奇异にみえるようで、小说は、この少女が大人になっても「葬式のときにばかていねいな挨拶をした」と従兄弟にからかわれるくだりがある。
しかし、二十代、三十代ともなれば话は违う。たとえば冠婚葬祭で、正式な服装かどうか自信がないとき、「纹服の用意がございませんで」という言い訳をしたら、少し気が楽になりそうだ。
また、「お胜手元なんなりとご用をいたします」という言い方も、裏方に彻する心意気が伝わりていねいである。
そして、私が一番心をつまされたのは、次の言叶だ。では、何を手伝っていただけるかと闻かれた千代は、「お茶番ぐらいならできると思います」と答える。手伝うと言っても大それたことはできない十六の娘には精いっぱいの返答だったといえよう。
たとえば、葬式の段取りにかかりきりになっている家の人に「お茶番だけでもお手伝いしましょうか」とそっと声をかける。葬仪やトラブルで力を落としている人に、「お客様のお茶番をしておきますね」と申し出る。たいしたことはできないけれど、そのくらいだけでもあなたの力になりたいという申し出に感じられる。相手も「そうしていただけますか」と言いやすい、负担のなさがいい。これは応用范囲の広い言叶だ。
それから、言叶遣いだけでなく、彼女の随笔や小说には、木の廊下がいつまでも黒ずまないふき扫除の仕方とか、「东南障子」とか、台所道具の手入れの仕方とか、昭和の住まいや知恵にまつわる事柄が次々とでてくる。これがまたいい。
失いたくない美しい日本语を求めて幸田文を読んでいたら、もっともっと知っておきたい昔ながらの生活の知恵に出会って、お得な気分になったというあんばい。
私が今読みたい本は古本屋にしかないのが残念であるが、まだまだお宝がねむっていそうなので、古本屋通いをやめられずにいる。
能把大意翻译出来就可以了~谢谢啦~~