クラシック音楽のコンサートで、演目の曲を知らない聴众が、まだ演奏が终わっていないのに拍手してしまい、ばつの悪い思いをすることがありますが、全プロセスを理解していないと、完了したかどうか分からないというのは、それと似ています。「理解」といっても、それは大袈裟なことではなくて、ある事柄を一连のストーリーとしてとらえるということです。谁かの行动を记述するとき、その人のとっている行动を完了の形式で记述するためには、その人の行动の目的や意味を探らなければなりません。それが分かって始めて、その人の行动の终着点が见え、完了のときを判断できるわけです。あるいは、その人の意図に沿った视点ではなく、まったく别の视点でその人のストーリーをつくることもあります。いずれにしてもストーリーの终着点が完了のときなのです。事物の完了を记述するときも同様に考えられます。现前の表现が「现にあるもの」に出くわしただけでも成立し、その出くわしたものに必ずしもかかわらなくてもよいのに比べ、完了の表现は少なくとも、记述する事柄が完了したと话者が判断しなければなりません。その判断の根拠は必ずしも、话者がその事柄の生起しているところに居合わせている必要はなくて、他人からの伝闻か、あるいは、确実な推论でもいいのです。
パソコンでの翻訳はご远虑ください。 现前の表现が「现にあるもの」に出くわしただけでも成立し、その出くわしたものに必ずしもかかわらなくてもよいのに比べ、完了の表现は少なくとも、记述する事柄が完了したと话者が判断しなければなりません。
参考译文:用于现在时态的表达方式(一般用于表达抽象事物),即使遇到了某个“现实存在的事物”也是成立的,但它和这“现实存在的事物”并不一定就有关联。与之相比,如果要用完成时态的表达方式,那么说话人至少得有某种根据来判断所记述的事情确实完成了。